1966年から単身英国にわたり、ロータス41で英国F3に参戦、その後ロータス59F3や69F2を駆り、ヨーロッパを転戦した日本レース界のレジェンド、生沢徹さんから、CTL Japanにこんなメッセージが送られてきました。
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1966年から2年間在籍していたブランズハッチのティーム Motor Racing Stables のティーム・メイト、ハリー・スティラーが、こんなポスターを創りました。
1960年代の1リッター F3時代に英国F3チャンピオン・シップに出ていたドライバー達を網羅したポスターです。
85人中、既に30人がこの世を去っています。
1ポンド 1008円、1ドル 360円。
海外へ持ち出せるお金は、わずか500ドルまで。
インターネットどころか、携帯電話は元よりFAXすらも無い、海外との電話も一々国際電話の交換台を呼び出して繋いでもらう。
そんな時代に、この顔ぶれを相手に本当に良くやったと思います。
2年目、67年には、ティーム・メイトのハリー・スティラーを負かしていましたので、問題無くチャンピオンになれていました。
但し、アタシは、毎シーズン、5月の日本グランプリで1年分の英国でのレース資金を稼がなければならなかったので、英国に戻ってシーズンを始められるのは、6月になってから。
もし、フル・シーズン出来ていれば……。
人生に、もしもは、ありませんけどね。
photo:生沢徹
ちなみに、1964年のチャンピオンのジャッキー・スチュアートは、初めての海外旅行で行った時、Oulton Park のレースで、ケン・ティレルのクーパーで出ているのを見ています。
その後も旅行中、偶然、パリの空港でも彼を見ています。
生沢徹
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こちらが当時の生沢さん
ちなみにこのポスターを制作したハリー・スティラーは、ブラバムBT16、BT18をドライブし1966年の英国F3王座を獲得。翌年もブラバムBT21をドライブし英国F3で2冠を達成したレジェンドのひとり。
photo:生沢徹
66年はロータス41で苦戦した生沢さんですが、ブラバムBT21を手に入れた翌年は、スティラーをも凌ぐ走りを随所でみせ、F3で3勝を挙げる活躍をしていましたから、もしフル参戦が実現していれば、ご本人のおっしゃる通り、状況が変わっていたかもしれません。
photo:生沢徹
2台のワークス・ロータス59を従えてトップを走る生沢さんの59。これまで多くの日本人ドライバーが海外で活躍してきましたが、まったくのプライベート参戦でありながら、これほどの成績と実績を残した日本人ドライバーはいまだかつて現れていません。
このようなレジェンドから、直接メッセージを頂いたことを、我々は誇りに思っています!